▼ドーナツのルーツ▲

ドーナツは、ドイツが発祥地と考えられているそうです。
(ちなみに、関係ありませんが、ハンバーガーはモンゴルだとか。。。)

ドーナツの語源は、
小麦粉から作るオランダの円形の揚げ菓子で真ん中にクルミをのせたものがありますが、 これが英語の「ドー(生地)ナッツ(クルミ)」の起源のようです。 イギリスの清教徒たちがメイフラワー号でアメリカ新大陸へ渡る途中に、オランダに立ち寄りました。 彼らはそこでこの菓子の作り方を覚えたようです。

ドーナツに穴が開いた始まりは・・・となると、
お店に置いてる、リーフレットには、 [いろんな説があって、ドーナツ大論争がまき起こったほど。」 と書いてあります。 「結果的に落ち着いたのが、そのむかし、メイン州に住んでたハンソン・グレゴリーという 船乗りのエピソード。彼が子供の時、母親の揚げるドーナツの真ん中がいつも生っぽいと 言ったところ、母親がその部分をくり抜いて作ったことが、始まりだとか」

でも、もっと歴史を遡れば、ドーナツ型のパンは、ずっと大昔から存在してたのです。
紀元前4000年前に、パンが誕生しました。
紀元前3世紀頃、古代スカンジナビア人が、ドーナツ状のライ麦発酵パンを焼くようになりました。
札幌の北欧館・パンの博物館で見たものは、本当に、ドーナツの形してました。
8世紀頃には、発酵パンが主流となり、棒などに刺して保管するようになる。ミスドもそうですね。ドーナツを揚げたあと、棒に刺して油を落として、かわかしてます。

そうやって、たどっていくと、かなり古くから、ドーナツは、あったのかもしれませんね。
▼ミスドのルーツ(ハリーウィノカー氏の紹介)▲

ミスタードーナツのルールをたどれば、
アメリカで誕生したミスタードーナツは、ダンキンドーナツが分化したもののようです。
その誕生地、アメリカのボストン。
イギリスから渡ってきた清教徒(ピューリタン)によって築かれた都市です。
ミスタードーナツやダンキンドーナツが誕生する前、
ピューリタンドーナツという会社がドーナツを作っていました。

ダンキンドーナツ創業者、ウイリアム・ローゼンバーグ氏が、
1946年に工場や事務所に対するケータリングサービスを行っていました。
ケータリングサービスとは、大きな白いバンの後ろにいろんな食べ物を乗せ、届けて、販売するという仕事です。
そのときに、会社の内部を固めてもらうために呼んだのが、がミスタードーナツの創業者、ハリー・ウィノカー氏です。
実は、奥さん同士が姉妹で、ウィノカー氏の奥さんが、姉。ローゼンバーグ氏の奥さんが妹だったそうです。

ケータリングサービスで、いろいろな食べ物を流し売りをしていました。
そのときに、最も売上に貢献していたのがドーナツとコーヒーだったそうです。

1948年には、ローゼンバーグ氏が、オープンケトル(2年後にダンキンドーナツに改名)という名前で、ボストンの南のクインシーにオープンしました。

ダンキンドーナツの語源は、
バスケットのシュートをダンクと言うのと同じで、ドーナツをコーヒーにつけて食べることをダンクと言うところから由来するそうです。

では、なぜ、ダンキンドーナツから、ミスタードーナツが生まれたのか?
フランチャイズ化したいというローゼンバーグ氏の意見と、
直営店でしたいというウィノカー氏の意見があわなかったとか。
それから、ドーナツ生地。
冷凍生地を使っていたそうですが、生地は店舗で作るべきだと主張して分派したとか。

ミスタードーナツは、こうして、ボストン郊外、電車で、20分ほど離れた、
リビアCityに、1955年11月に誕生しました。
海の見える、閑静な住宅て、感じです。

ミスタードーナツの語源は、
若干の尊敬をこめて、「ドーナツをつくるスペシャリスト」という意味から
来ているそうです

現在、アメリカには、ミスタードーナツは、存在しません。
というのも、ダンキンドーナツに吸収されたんですね。
▼ミスドのルーツ(鈴木清一氏の紹介)▲

日本でのミスタードーナツの展開。
ダスキンの創業者鈴木清一氏。
HIDA(Human Development In Action = 行動による人間育成)運動の創設者エバンズ博士との出会いが、後のダスキンに大きな影響をおよぼしたそうです。エバンズ博士の紹介により、メンデルソン氏より、ダストコントロールの仕事を教えてもらい、ハリー・ウィノカー氏が、ユニフォームのレンタル先として、メンデルソン氏と契約を結んだことにより、後年、エバンズ博士が、ウィノカー氏を紹介することになりました。 アメリカのフランチャイズを勉強に行きたいということで、エバンズ博士に紹介してもらったのが、ウィノカー氏のミスタードーナツ。昭和44年か45年、ダンキンドーナツは、レストラン西武と提携したことで、ウィノカー氏が、カッカしたとか。そして、45年1月、ウィノカー氏が日本にやってきました。そのとき、日本のいろんなところで、ウィノカー氏が、ドーナツを食べて、これは、本当のドーナツじゃない。自分のドーナツなら必ず受けるはずだと、無理やりに、おまえがやれと、鈴木清一氏に言ったそうです。最初は、10万ドル(当時の為替で、3600万円)で、ミスタードーナツをやらないか、という話で、条件が出てたそうです。アメリカの本格的なフランチャイズの勉強が、できるのであれば、やろうという簡単な受け方だったそうです。それから半月もたたない、1月27日、ボストンに行ったところ、思い切って、日本中の権利を買いなさいと言う話になったそうです。日本全国の権利を42万5千ドルで譲るという提案をしてきました。当時のダスキンの資本金の3倍の額です。そして、悩んだ末、その日の夕方に、決心したそうです。

昭和45年4月。全加盟店が集まって、ダスキンの7周年記念集会が開催されたとき、
「鈴木さん!アンタ、ダスキン、潰す気か?」と罵倒されたそうである。
なぜ、箕面に1号店が出来たのか。
当時、ダスキン本社のあったビルの隣に、ダイエーの本部があり、
郊外出店の戦略により、大阪北部の箕面市に、ショッピングセンターを作る計画があったそうです。
その一角に銀行が入るはずだったのが、オープン半年前に降りてしまった。
そこで、ダイエー側が、出店しないか、と打診してきたそうです。

開店当時のメニューは、何があったんでしょうか。
・・・オープンしたときのドーナツは143種類。
それを常時30種類くらい、とっかえひっかえ売り場に陳列して、何が売れるかテストしてたらしいですよ。
ちなみに当時の販売価格は、ドーナツ40円。ドリンク50円。
▼ミスドのルーツ(千葉弘二氏の紹介)▲

ミスタードーナツを語るのではずせないのが、千葉弘二氏。
「違法肉まん販売事件」で逮捕されたので、賛否両論はあると思うが。
まだご存命だと80歳過ぎてるのでもう会えないかもしれません。

鈴木清一氏が生みの親なら千葉弘二氏が育ての親。
生まれは九州の戸畑、育ちは新居浜。
20歳のとき姉をたよって京都の一燈園に上京。一燈園からの紹介で鈴木清一氏に拾われて就職。
その後吸収合併で、鈴木清一氏が社長を追われることになり、一緒に退社。
鈴木清一氏がダスキンを創業するが、千葉氏は東京で無職生活。
創業当時ダスキンは大阪でビルメンテナンスの事業をやっていたが、千葉氏は家庭用ぞうきんの事業計画書を提出。一人東京で売り込みを行う。
それがいまの家庭用へのぞうきんのレンタルのはじまりとされている。
売上げは全部ダスキンに送り、しばらく無給生活を送っていたが、子供が産まれるのをきっかけにダスキンの社員になる。
ある日鈴木清一氏がアメリカのミスタードーナツと契約。ただ当時の社員は誰一人やろうとする人間がいなかった。
それで仕方なくどこかの会社に委託することに9割9分決まりかかったところで千葉氏が立候補。
アメリカ・ボストンの郊外田舎町に千葉氏を含め5人でミスタードーナツ研修に行くことになる。
そこで当時ライバル、ダンキンドーナツの研修にきてた社員と遭遇。ライバル会社はひとりポツンと研修にきて、誰も送り込んでこないでないでくさってた。
そういうこともあり、ミスタードーナツとダンキンドーナツは同時期にスタートしたが売上で大差がつく結果になる。
その後、2代目の駒井社長から社長をせよと話しをもらうが自分には荷が重すぎると何度も何度も断りつづける。一燈園の西田氏の相談。 「あなたはその荷物、重い荷物を全部自分で担ごうと思うから大変なことになるのではないですか。これからは会長として駒井社長がおられるのだから、 あなたは社長として片一方の荷物だけを持たせて貰うようにされてはどうですか。」
こうして千葉氏は3代目の社長に就任することになる。
鈴木清一氏の遺品の中からスケジュール帳を発見。鈴木清一氏を見習い、冬は寒い北海道を、夏は暑い沖縄と、全国のお店を一店一店まわり便所掃除をさせていただくことになる。
その当時から加盟店の皆様にお詫びし、感謝して、そしてお願いをして、社長を続けてきました。
(参考文献・一燈園出版部光友639・640号合本)

私がダスキンソフトにいたときに千葉社長がこられたそうですが、結局わからずじまいで、お目にかかることができませんでした。
私が大学を卒業した当時、採用を停止してたこともあり会社訪問も面接も一切なし。縁故がなければ当時は門前払いでした。
なので、一度はお目にかかりたかったですね。肉まん事件を起こして社長をクビになりますが、人間誰でも失敗は犯してしまうもの。
この事件によって黒歴史になってしまうのは悲しいですし、千葉弘二氏の功績を私は評価すべきだと思っています。
あなたが頑張ってくれたからこそ、ミスドファンをやっていられるのです。
もしもう会えなかったとしてもご子息さんにお会いできれば嬉しいですね。
いつかまた、千葉弘二氏の功績が再評価されれば、との思いで、批判覚悟でこのコーナーを設けさせていただくことになりました。